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2005年06月09日 (木) * 編集
法学部の学生だった頃にジュリスト別冊の「判例百選」でよく見かけたタイトルです。プライヴァシー裁判で有名になったこの『宴のあと』にはそれ故に、やや歪んだ先入観を持っていたことは否めません。実話をやや煽情的に描いたスキャンダラスな大衆小説なのだろうと。読後感は全く異なっています。 確かにこれは都知事候補野口雄賢と、彼を支えた女性料亭経営者の福沢かづの恋愛と政治の葛藤を描いた小説であって、これが昭和34年の実際の都知事選挙における有田八郎氏をモデルにしたある種のプライヴァシー侵害ともいえる作品なのは裁判でも明らかにされたとおり。しかしそれだけで斬り捨てるわけには到底いかない完成度がある。 キャラクターの描き込みは見事というほかなく、特に福沢かづの人間的な魅力は素晴らしいものがあります。少女時代から苦労を重ね、料亭の主として君臨するまでになった彼女。50代に入り、もう色恋に心を乱されることはないと確信していたかづが、自分とは全く対照的な元官僚の寡黙な老政治家野口に惹かれていく様の描写は一読に値するでしょう。 人は自分とは逆のタイプに惹かれるもの。学問はありませんが、明るく楽天的で大らかなかづに、どういうわけか野口も心動かされていくのです。どこか斜に構えて社会を眺めがちで、過度に理想主義的な野口には、自分で言うのも妙ですが、何か共感できるものがある。そんな彼が、張り切り屋で感情の振幅が大きくて、しかし無邪気で天真爛漫なところのあるかづと結婚することになるのも、個人的にはかなり納得します。 だからこそ、彼らの蜜月が長く続かないのは読み手としてちょっと悲しい。革新党から舞い込んだ都知事選立候補話をきっかけに、2人がすれ違っていく展開はある意味で避け難かったのだろうとは思う。かづが夫の当選を心から願って奔走すればするほど悲劇的な結末に向かうところに、書き手の三島が題材としての面白みを感じたのは当然だから。かづのキャラクターに惚れた自分にとっては寂しいことだけれど… 「宴のあと」、2人が収まるべきところに戻っていく様子は何ともいえない感慨を呼び起こすでしょう。それでもあくまでも前向きにもう一度自分の料亭を立て直そうとするかづの行動力に救われます。よくできた小説を一気に読み終えた後の放心状態は、宴のあとに感じるそれに似ていなくもないね。 2005年06月08日 (水) * 編集
そんなわけで三島 由紀夫を(ほぼ初めて)読んでいるわけですが、タイトルだけはよく知っているものが多かったりします。例えばこの『美徳のよろめき』もそうで、「よろめき」という言葉が流行語になったなんていう史実は知っていたり。生まれも躾もいい夫人である節子がずぶずぶと不倫の沼に堕ちていく様子を描いた、当時としては恐らくセンセーショナルだったと思われる小説です。21世紀の今日の読書としてはテーマ的に陳腐化していますが、節子の心境描写にこだわるその文章には感嘆せずにいられません。 「節子」という名前は貞節な女性を表す記号であり、読者の想像通りに類型的な姦通ものが展開されます。しかしその過程で、上品で安定した家庭の妻としての「良識」にがんじがらめになった彼女が、「想定の範囲内」から踏み出してよろめくことに異様な快感を感じる様子が仔細に描かれるわけです。ルールを壊す悦びに酔いつつも、彼女は常に「自分が主導権を握っている」ことを確認せずにはいられない。 節子がお人形のようで、リアリティが感じられないという評価はよく分かる。三島自身に姦通の経験があったかどうかは知りませんが、女性でないことは確かだから、不倫に耽る女性の心理は想像の産物とならざるを得ません。しかしそれは、想像の産物としてはあまりにも強固かつ徹底的に構築された「よろめき」観であって、筆者の観念世界の一種異様な美しさと脆さが同居する緊迫感が行間を埋めているのです。 簡単に突き放してしまうにはあまりに惜しい、三島的「聖女伝説」なんじゃないかと。 2005年06月06日 (月) * 編集
実は先週の神戸出張中、この『午後の曳航』を含む三島由紀夫本を3冊持って行ったのです。行きの新幹線で1冊、帰りの新幹線で1冊、そしてポートピアホテルの部屋で1冊。これぞ乾ききった大地に沁み込む雫の如し。まさに怒濤の勢いで読破したのでした。今さらではありますが、その天才的な文章に震撼し、これまで彼を遠ざけてきたことを激しく後悔する出張になったのです。高校生の時分に数冊は読んだはずなのだけれど、どうにも引っかからなかったのです。読書というのは往々にしてそういうもので、時を置いて再び接してみると、当初とは全く異なる衝撃を受けることも少なくありません。要するにあの頃の僕はまだ彼の文章を受け入れる準備ができていなかった、若しくは明らかな天才を前にして壮絶な敗北感から逃亡するために彼を遠ざける必要があった、ということなのではないかと思うのです。 しかし、天才を天才と認めることの一体どこが敗北なのだろう? 例えば本書の解説に、田中美代子という文芸評論家は「読者は、仲間を集めて高遠な哲学を披瀝する十三歳の少年など現実に存在しないことを知っている」と書いたわけですが(昭和43年7月)、神戸の酒鬼薔薇事件をリアルタイムで経験した僕らは本書に登場するような少年(たち)が現実に存在することを知っている。その点だけをもってしても時代の遥か先まで透徹しきった三島の視点が窺い知れますし、そういう目を持ってしまった人間が早晩この「社会」に付き合いきれなくなるだろうことも容易に想像がつくはずです。 それにしても少年・登の、いや正確には彼らの「首領」の少年の思想の見事さといったらない。ごく簡単に要約すれば、 といったことになるわけですが、僕が35年かけてようやくたどり着いた考え方のようなものを、いとも簡単に言葉にしてしまった「首領」。「世界はいくつかの単純な記号と決定とで出来上がっていること」に僕がティーンエイジの頃から気付いてさえいれば、あれほど余計な心配や気苦労で悩むこともなかったろうと思うのですが…。 「首領」ら少年たちの純粋すぎる冷徹さ故の鮮烈な世界観に、例えばスティーヴン・キングで言えば『ゴールデン・ボーイ』を偏愛する自分が強く魅せられるのは当然といえば当然だと思う。生贄たる「猫」に関する悪夢の如き描写が登場するところまで共通しているわけですが、もちろん僕がそんなことに興味があると言っているのではありません。そうではなくて、「少年時代」がどれほど残酷なものになりうるかを体験してきた者のひとりとして、改めて身震いしているのです。 登と「首領」をめぐるストーリィは確かに本書の中核だと思いますが、個人的にはむしろ船乗り・竜二の精神性に共感するものが多々あります。他人と交わることが不得手で、ひとり海の上で精神を研ぎ澄ましていく竜二の思想こそ実は興味深い。自らに特別の運命が備わっていることを信じ、光栄を追い求めて精神を高みに追いやっていた彼が、登の母・房子と出会って肉体関係を持ち、研ぎ澄ませた思想が猛烈な勢いで鈍っていくその過程もまた興味深いのです。 例えば高邁なシングルライフ論を掲げていた男が、ある日結婚を意識して突如切れ味を鈍らせてしまうような、しかし社会的には「結婚して落ち着いたいい人になったわね」と言われてしまうような、如何ともしがたい居心地の悪さ(しかし恐らくは本人にとっての居心地の良さ)を体現してみせる竜二が、登の義父となる時点で見えてしまう結末。 母親の裸を覗く冒頭から、ラストシーンで「午後の曳航」というタイトルをひねり出すセンスに至るまで、ほとんどありとあらゆる文章表現と人物描写に完膚なきまでに打ちのめされました。参ったとしか言い様がない1冊です。 2005年06月03日 (金) * 編集
『野中広務 差別と権力』を読んで以来、政治本の面白さにハマっています。「政治」なんていうと胡散臭く感じられるものですが、広い意味で解釈すれば各種の調整や力の駆け引きもすべて「政治」なのであって、僕らも日常生活の隅々で体験していることです。職場の嫌な同僚とどう付き合うかも政治。パートナーと食事のメニューやセックスについて議論するのもまた政治。まあそこまで広げなくたって、政治家と呼ばれる人々とそれにまつわるエトセトラはそれだけで本が書けちゃうくらい面白いわけで、中でも日本政治における最大の事件のひとつが本書のタイトルにもなっている『田中角栄失脚』であることに異論はないところでしょう。もっとも、自分には角栄が首相だった時代の記憶はなくて、せいぜい大平・福田といったあたりからかなあ。 したがって「文藝春秋」昭和49年11月号の特集『田中角栄研究』により一国の首相が退陣に追い込まれたという大事件は僕にとって「有史以前」であるわけですが、だからこそ全く知らないドラマか映画のように面白く読めたのかもしれません。本事件に関係した人々の貴重な証言を集め、政界の表と裏から真相を追究したノンフィクションとして、本書は出色の出来だと思います。 「文藝春秋」の特集のうち、立花隆の「田中角栄の金脈と人脈」については、本人が書いたものも含めて裏話も豊富に公開されていますが、児玉隆也が手がけた「寂しき越山会の女王」の方について読むのは初めてのような気がする。「角栄と女」というテーマの性格ゆえなのかもしれませんが、一度は田中サイドのプレッシャーで断念したこのテーマで、再び角栄に戦いを挑んだ児玉というライターの執念が浮き彫りになるのです。 本書は児玉氏がその後遠からずガンで命を落とす展開を記述して幕を閉じます。ややセンチメンタルに思われるかもしれませんが、「ペンは剣よりも強し」を立証するかのごとく、命を磨り減らしながら権力に立ち向かったジャーナリスト精神を見て、ちょっと心が熱くなる終章だと思う。僕は今のところお金を貰って文章を書いているわけではありませんが、本当にいい仕事(文章)が書けたなら、ギャラなんて(ほとんど)要らないと思えるんじゃないか? 真に満足できる文章は書き手にもそれほどの喜びを与えてくれるし、時にはそのために命を差し出しても惜しくないと思える。 「田中角栄的なるもの(政治)」とは何だったのか、そして彼の横暴に気付きながらも新聞もテレビも沈黙を続けたのは何故だったのか。発売後もしばらくはほとんど問題にならなかった「文藝春秋」の記事が、外国人記者クラブにおける角栄への集中砲火的な質問の嵐を受けて海外で火がついてから、ようやく日本国内でも首相の責任を問う声が出始めたという事実。これが今回読んでみての最大の衝撃だったかも。日本のジャーナリズムなるものの機能不全ぶりは、結局その後も本質的には変わっていないのではないか。 ニクソン米大統領はウォーターゲート事件をきっかけに失脚しましたが、『田中角栄研究』があったからといって日本も同じだと思ってはいけません。文藝春秋が火をつけた後も新聞はしばらく沈黙していましたし、その姿勢は21世紀になった今も変わらない。一例を挙げれば東京都の石原都知事が都庁をほったらかしにし、腹心の副知事が強大な権限を思いのままにするという異常事態が発生していましたが、都庁担当の記者たちはそれを知りつつずっと何も書かなかったのです。彼が辞任に追い込まれて初めてぽつぽつと記事が出始めましたが、これが日本のマスコミの実態でしょう。権力の前で本気になれる書き手はごく僅かしかいない。 だが僕ら読み手にも、政治家とマスコミを放置してきた責任はなかったか? …文春新書が満を持して送り出しただけあって、非常に読み応えのある良質の新書だと思います。 2005年05月29日 (日) * 編集
橋本自身が書いているように、「この本はサラリーマン社会の閉塞を嘆じるものではありません」。その時点で、もうこれはタイトルの勝利なんだと気がつくべきです。『上司は思いつきでものを言う』、このフレーズに共感する人は多いことでしょう。大切なのは、普段本をそれほど読むことのない彼らに手にとってもらうことなのです。主題や内容なんてその次です。もっとも、全く内容がない本だというのではありません。しかし恐らくは、橋本自身も原稿用紙を埋めながら、自由にとっ散らかっていくテーマの着地点をどこにしようか探ろうとしたフシがある。その結果が終章に向けて半ば唐突に出現する「儒教論」であり、「民主主義論」であり、「世界における日本論」であるわけです。それが許されている。許されてしまっているのが現代の(より正確に言えば『バカの壁』以降の)日本の新書界なのであって、橋本はその緩んだスキームを最大限に活用して好き勝手に大風呂敷を広げたのです。 誤解を恐れずに言えば、この本はホラ話です。大ボラです。そのことを十分に理解して読み始めた人にとっては、本書は橋本一流のホラ吹き話術を最大限に楽しめる良質のエンターテインメントたり得ます。しかしそうではなく、職場に本当に嫌な上司がいて、明日からどうやってアイツと対決しようかと殺気立っているあなたが、何らかの手っ取り早い攻略本のようなつもりで本書を手にしたのだとしたら、ちょっと大変なことです。 恐らくその答えはここには見つからないばかりか、あなたは本書に投げ打った税抜き660円の行方を思ってカラオケで『そして僕は途方に暮れる』を歌い、同席した職場の可愛い庶務の女の子たちから「こんな歌知らな〜い」「古すぎ」「ダサすぎ」「氏ね」などと罵倒されて落ち込み、泣きながら家路につくことになるでしょう。帰り着いて元気を出そうと聴いた Judas Priest の "Sinner" で『母さんが言う こういうパーマは変だと 死のう!!』という空耳に触れて発作的にマンションから飛び降りてしまうかもしれません。 それほど危険な本でも構わない、あるいは危険な本にこそ惹かれるという命知らずな諸君ならば、引き止めてもどうせ無駄というものでしょう。とりあえず読んどけ。 *** ご覧の通り、レビュワーは思いつきでレビューを書くのです。 あたかも上司が思いつきでものを言うように… 2005年05月28日 (土) * 編集
個人投資家のための良質な入門書はもうあらかた紹介しちゃいました。あとは如何ともしがたい粗悪本ばかり…かと思っていたらさにあらず。この『天才数学者、株にハマる − 数学オンチのための投資の考え方』など「読み物」としてなかなか面白く、オススメできる本です。ワールドコムといえば、粉飾決算がもとで破綻に至ったアメリカの新興通信会社です。本書の著者は数学者ですが、その傍ら資産形成として同社の株式を買っていました。当時はインターネット関連銘柄なら間違いなしといわれていたわけですが、ネットバブルはもろくも崩壊。しかし破綻に向けてどんどん株価が下がっていく間も、この著者(やその他の多くの個人株主)はワールドコムを買い増していったのです。 そんな自らの失敗談を交えつつ、「株式市場」という魔物にまつわる様々な問題を数学的な観点から解き明かしていく、というのが売り文句。実際に投資を始めてみると分かることですが、入門書に書かれているとおりに利益を上げることなどできやしません。それができるくらいなら全員大金持ちになってるし、そもそも投資本なんて必要ないわけですよ。 そんな入門書においてよく語られる「効率的市場理論」だとか「ランダムウォーク理論」、さらにはテクニカル分析やファンダメンタル分析、はたまたリスクとリターン、「行動ファイナンス」といったテーマの数々が、数学理論(主として確率・統計論ですが)を用いて明快に数値化されていく様は、これまでの投資本とはかなり趣が異なっていて新鮮です。 一番笑ったジョークは、通りを歩いている2人の効率的市場論者の話。彼らは道端に100ドル札が落ちているのを見つけたがそのまま通り過ぎた。というのは、もしもそれが本物であったならば、既に誰かに拾われているはずだからだ、というのです。実際には株式市場だってそこまで完璧に効率的なことはありえず、だからこそ個別銘柄に投資する面白さがあるわけですが…。 理系の高校卒業レベルの数学知識があった方が内容を深く楽しむことができますが、米国ではテレビ番組に出演するなどメディア受けの仕方をよく心得た著者のようで、文章自体もユーモアに溢れていて結構面白い。市場平均を追いかけるインデックスファンド主義の本に飽きたら読んでみてもいいのでは、と思います。 もっとも、タイトルの「天才数学者」には偽りありなんじゃないの? 原題だって "A Mathematician Plays The Stock Market" なんだからさ。 2005年05月17日 (火) * 編集
以前から気になっていた『野中広務 差別と権力』ですが、ようやく読む機会を得ました。引退後は急速に存在感が薄くなっているので、もう忘れてしまった方もいらっしゃるかもしれませんが、80年代から90年代にかけての日本の政治家の中で異様な存在感を放っていたのが野中氏です。中央政界への登場も極めて遅かった彼が、どうしてあそこまで上り詰めることができたのか。その鍵を被差別部落出身者という角度から読み解くべく、丹念な取材に基づいて構成されたノンフィクション。 ずば抜けた情報収集力を持ち、時に恫喝的な政治手法をとりながら、地方政界から一歩一歩階段を上ってきた野中氏のバックグラウンドに、部落差別を受けていた事実が落としていた影は想像以上に大きかったことでしょう。しかしその出自故の苦労もあって、彼は一方向にイデオロギーを推し進める政治家ではなく、潮目を見ながら世の中を味方につけていくタイプとして地位を築いた。 しかしいったん本気になった時の追い落としたるや強烈なものがあります。この本の中でも紹介されているNHKの元会長である島氏追放にあたって野中氏が見せた鬼気迫る追及劇は、ここぞというところで満点以上の仕事をすることがその後の流れを大きく引き寄せる、という好例でしょう。 著者の魚住氏はこの本を書くことが「心の奥深くから湧き上がってくる、知りたい、書きたいという取材者としての衝動」すなわち「私の業」だったといいます。部落のことを書いたことで自分の家族が辛い思いをしたことを野中氏に責められた著者が弁解して吐いた言葉が「業」だった。しかしそれは政治家とて同じことで、やはり「業」に衝き動かされて仕事をしているのですよね。 自分にとっての「業」とは何だろう。魚住氏の仕事ぶり、特に野中氏が中央政界にデビューするまでの京都ローカルエリアでの様々な抗争やエピソードの生々しい記述には目を見張らされます。これが「業」なのか。一方で、自民党の仕切り役として君臨する中央政界時代については、やや党内抗争全般に筆が及んでしまっており、フォーカスは甘くなります。もっとも、個人的には田中角栄失脚前後や小沢一郎との闘争、さらには「加藤の乱」などにおける野中氏の立ち回りぶりがよく分かって非常に興味深いものでした。 そしてやはり衝撃的なのはラストシーンでしょう。陰で差別的な発言を行っていた麻生太郎氏に、自民党総務会の場で野中氏がぶつける強烈な言葉は、野中氏を支持する・しないに関わらず、全ての読者の心を揺さぶるはずです。 凄まじい剣幕の野中に、麻生は何も答えず顔を真っ赤にしてうつむくばかり。 しかし引退間際の野中氏の政治力の衰えは、残念ながらこの法律はその後実質審議が行われないまま廃案になってしまうのです。それもまた彼の「業」だったのでしょうか。 「政治家」という生きものについて、もう少しいろいろな本を読んでみようかなと思わせてくれた1冊になりました。 2005年05月14日 (土) * 編集
大ベストセラーになった『バカの壁』や『頭がいい人、悪い人の話し方』などを引き合いに出すまでもなく、昨今の新書ブームはなかなかすごいものがあります。書店に行っても新書コーナーの勢いはかなりのもので、猛烈な勢いで新刊が出ている様子が見て取れますね。ところがその内容たるや玉石混交であるのも事実。先に挙げた2冊などはどちらかといえば「石」の部類に属する本だと思います。前者は対談のテープを元に別人が書き起こし、インパクトのあるタイトルをつけて売り込む戦略が当たりました。ちなみに企画して対談を行ったのは僕の大学のサークルの2年先輩の人でした。後者は作者が昔書いた本のタイトルを付け替えて新書版にして出し直しただけに近いものらしいのですが、決めつけと偏見に満ちていてあまりオススメできません。 まあ本なんてものはパラパラめくってみて自分が納得できれば買えばよろしいわけですが、これから読んでみようかな?なんて人には初心者向けのブックガイドがあってもいいと思う。そこへいくとミステリーとかSFとか、ジャンルごとのブックガイドはよく見かけるのですが、昨今巷に溢れる「新書」という「形態」を切り口にしたガイドはあまり出回っていなかったのでした。 そこを狙ってWAVE出版が2003年12月にリリースしたのがこの『使える新書−教養インストール編』で、好評を博したのかどうか、2004年12月には続編の『使える新書2−21世紀の論点編』も発売されています。玉石混交の膨大な新書群の中から、実用性の高いものや知的好奇心を特に刺激するものなどを選りすぐって紹介するブックガイド、というわけです。その評価は後回しにして、まず「新書」というスタイルについて個人的な印象を書いておくと、実はなかなか中途半端な位置にあるように思えます。入門書にしては少し硬めで、専門書にしては浅すぎる。ターゲットも半端ならコンテンツも半端という、非常に困った立ち位置にある。ところがこれを逆手に取れば、ちょっとうまい企画を立て、ターゲットを絞り込んで売り込めば大きく火がつく可能性がある。ハードカバーや純文学では起こりえない化学反応を起こし得る書籍形態ともいえます。 『バカの壁』や『頭がいい人〜』などはその好例ですが、僕が評価する新書はそういうのではなくて、例えば難解な学問の世界のエッセンスを分かりやすい表現で紹介し、読み手の知的好奇心を刺激してくれるような、あるいはその扉の向こうに広がる広大なスケールの知的世界を想像させてスリリングな知的興奮を与えてくれるような、そんなタイプの本だったりします。(あと自分が文章を書く上でネタにしやすい本ってのもありますが) その意味で、玉石混交であればこそブックガイドは必要だし、新書の目利きたちがどんな本をピックアップするのかな、という期待もあって手に入れたわけですが、読後感はやや微妙。企画は非常にいいと思うし、取り上げられている新書もうなずけるものが少なくない。問題はレビューを書いているライターたちの力量の方で、それこそ「玉石混交」。意味不明なヨイショとか基本的な語法ミスが目につくのが残念といえば残念。 それでも、新刊ばかりでなく「古典的」な定番新書をしっかり取り上げるスタンスとか、巻末にびっしりまとめられた分野別リストなど、資料的に使えるパートも多々あるので、「新書ブームというけれど、何から読んでいいか分からないなあ」という向きにはそれなりの入り口にすることはできる本でしょう。10冊、50冊と読んでいくうちに必ず自分なりの読書軸みたいなものが定まってくるはずです。そうなればもうこの本は要らないし、自分の目で玉と石を見分けながら、活字の海を渡っていけばよいのだろうと思います。 2005年05月09日 (月) * 編集
![]() ネコって、その存在自体が本当に人を癒してくれる生きものだと思います。だからこそ、うちでもネコ飼いたいなあ…と思っている人も多いことでしょう。でも実際には賃貸物件ではなかなか難しい。しかもシングルだと家を空ける時の世話問題があったりして、結局諦めざるを得なかったり。 そこでこの『ネコ路地へ行こう』ですよ。ネコ路地とはすなわち、街においてなぜかネコをよく見かけるエリアのこと。大抵どこの街でも「そういえば毎日あそこでネコが昼寝してるな〜」と思いあたる場所があると思います。野良ネコ飼いネコ問わず、そんなエリアを重点的にチェックして手書きの地図に猫印を書き込んでいったのがこのエッセイ集。 自ら街を探検するのみならず、商店街のおじさんおばさんにネコのいそうな場所を聞き込んだり、そのまま昔話を聞いちゃったり、ついでにそこの和菓子屋さんでお菓子を買って食べちゃったりと、結局のところネコをきっかけにした街のお散歩ガイドとしてまとめられています。 でもそれってなかなかイイかも。例えばここで取り上げられている月島や人形町、浅草といった東京の下町は、僕自身の生活エリアではないので、普段なかなか自分で歩くことがありません。出かけるにしても表通りを歩くだけでしょう。そこでこの本を片手に一歩裏通りに入ります。そして隅っこでゴロゴロしてるネコの姿を探しながら、あちこちぶらぶら歩き回ることで、それまで知らなかった東京の姿が見えてくるんじゃないかと思うのです。 後半では横浜や喜多方といった東京以外の街にも足を伸ばしていて、要するに「ネコ路地めぐり」という発想が日本全国どこにでも応用可能なことを示しています。実はこんなに街中にネコが溢れているのは世界でも日本くらいのもの。海外で放し飼いのネコや野良ネコを見かけることはあんまりありません。ペットとして飼う場合でも、ほとんど家の中で飼っているのです。 街を歩けばネコにあたる日本という風土は、ネコ好きにとってはある意味とても貴重な環境だったりするのですね。わざわざ自分で飼う必要はない。僕らは街全体でネコを飼ってあげてるんだ。そう思うとこの本片手にあちこち散歩することのありがたみも増すというもの、さっそく自分の街の猫マップを作ってみようかな? 2005年04月16日 (土) * 編集
できれば紹介せずに一生とっておこうと思ったけれど、それではあまりに申し訳ないほどの大傑作なので、今日は満を持してご紹介しちゃいますよ。何を隠そう、2000年10月の発売時にたまたま手にとって購入し、それ以来自分の中である種のバイブル的存在となっているリリー・フランキー先生著、『女子の生きざま』(新潮OH!文庫)。もう、ヤバい。マジすご&ヤバすぎですよ。ただでさえ貧困な語彙が、さらに激しく失われていく感覚。すべては『女子の生きざま』なるパンドラの箱を開けてしまったからに他なりません。「この人こそ真の天才だ」と思える人が世の中にはいますが、自分にとってはリリー・フランキーもその一人。もうあり得ないくらいに凄まじい言語感覚&イラストレーション。 元々は雑誌に連載していたコラムを98年にまとめたものなので、内容的な古さがあるのは否めません。厚底ブーツとかガングロとか、あっという間に風化した女子風俗も数知れず。しかしこれらのアイテムは翌年以降の流行と容易に差し替え可能ですから、リリフラ節の鋭さが失われることはいささかもないのです。もちろん今年も、来年以降も永遠に。 ランダムに引用しようとして開いたページが既にコレですよ。横に女子の下半身のける熱帯雨林気候と地中海式気候の説明イラストつきで。渋谷や原宿で見かけそうな、いわゆるちょっと思慮の浅そうなダメ女子たちの生きざまを、どこまでもユルく描き尽くす驚異的な爆笑コラム集。絶対に満員電車では読めないっすよ。 女子を描くということは、実はその裏返しとして、男子の生きざまも描かれているということなのですね。要するにいつも都合よく女子とセックスすることばかり考えている男たちという如何ともしがたい生きものがいて、その対極に「女子」という、素晴らしくトンでもない生きものがいる。その綱引きというか、駆け引きのエネルギーによって地球が回って今日も24時間で一回転したんだなと、地動説を覆す性動説を唱えたくなってしまいたくなるくらいに素晴らしい本だと思うよ。本気で。 シモネタと(一見)性差別的な表現を受け付けない人にはオススメできないけれど、そうでない多くの人々のために、今すぐ本書を「新潮文庫の100冊」に入れるべきなんじゃないだろうか。 【目次】 10円玉の香り しびれるセリフ うちのタマ 工業製品 お酒 クリスマス 悦入魂 気功 大都会 個性〔ほか〕 |
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